千早赤阪村の石造物
1.森屋惣墓の五輪塔(寄手塚と身方塚)
森屋惣墓には、2基の大型石造五輪塔があります。
一般に墓地の北側に建つ塔は「寄手塚」、南側に建つ塔は「身方塚」という俗称で呼ばれていますが、この呼称法は、楠木正成が南北朝動乱期に、この千早赤阪でおこなわれた戦により命を失った供養塔として造立したもので、その際、「身方塚」(楠木軍)よりも「寄手塚」(幕府軍) の塔の方を少しだけ大きく建てたという何とも奥ゆかしい、正成の人情味が感じられる伝承によるものです。
寄手塚塔は、花崗岩製で村内最古のもので、河南町寛弘寺神山共同墓地に所在する正和4年(1315)の五輪塔とほぼ同じ頃のもの、身方塚塔は花崗岩製で室町時代初期のものであると考えられています。
なお、寄手塚塔は昭和45年に大阪府有形文化財に、身方塚塔は昭和22年に大阪府重要美術品に指定されています。
2.不本見神社層塔
「ヤーホ相撲」が行われる不本見神社の前に層塔は建てられています。
層塔は、凝灰岩という石を用いて造られています。本来は五層の屋根の五重塔として造られたと考えられますが、現在は残念ながら三層目を残し、そこから上部を欠損しています。層塔の塔身には、明確には判断できませんが、釈迦を表す不空成就が彫られていると思われます。塔には年号は刻まれていませんが、その形態などから鎌倉時代前半頃のものであると考えられます。
3.千早城跡五輪塔
この五輪塔は、高さ137.3センチメートルで、ピンク色をした「御影石」と呼ばれている花崗岩で造られています。南北朝時代の終わり頃に造られたものであると考えられています。
この五輪塔には、「楠木正成の塔」や「楠木正儀の塔」の伝承などが残っています。
ところで、「楠木正成の塔」や「楠木正儀の塔」と呼ばれている塔は、千早赤阪村の他でも見ることができます。このように、あちらこちらに同じ人物の供養塔が見られるという現象は、特に珍しいことではありません。複数存在するという現象から、楠木正成や楠木正儀が、多くの人々に親しまれていた人物であったということを知ることができます。
4.千早惣墓五輪塔
千早惣墓五輪塔は、高さ189.0センチメートルの大きな五輪塔で、花崗岩という石で造られています。
五輪塔の下側に反花基壇(かえりばなきだん)、延石基壇(えんせききだん)が設けられており、延石基壇の中央には穴が開けられています。この穴から遺骨や遺髪を納め、亡くなった方の成仏を願ったと考えられています。
この五輪塔には、年号が刻まれていないためいつ建てられたのかはっきりとはわかりませんが、形が河南町寛弘寺神山墓地の正和4年(1315)のものとよく似ていることから同じ頃のものであると考えられています。
なお、この千早惣墓五輪塔は昭和56年に大阪府有形文化財に指定されています。
5.金剛山の町石
「町石」とは、簡単に言うと目的地までの距離を刻んだ石のことです。
近世の頃、金剛山への登道ルートは大きく分けて4つありました。河内側から登る「水分道」(建水分神社がスタート地点)と「千早道」(現在の登山道と同じ道)、大和側から登る「関屋道」(御所市)と「小和道」(五條市)の4つのルートです。これら各々の登山ルートには、町石が建てられています。
水分道の町石には、例えば「六十町」というように距離に関する情報を刻むとともに、その上側に「シリー」という吉祥天(きちじょうてん)を表す種子が刻まれています。吉祥天とは福徳をつかさどる女性の天部です。このように町石には、仏や神などを表す文字が刻まれていることがあります。
このことから町石は、その人物を目的地へと向かわせると同時に、その精神をもいざな誘う効果があったと思われます。
- 1町=109メートル
- 種子=仏などを標示する梵字
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更新日:2024年07月31日