歴史を巡る
金剛山の山頂から更に上に位置する「金剛山葛木神社」。厳かな神道を歩くと夫婦が手をつないでいるように見える「夫婦杉」があり、その隣の石碑の言葉も心に響く。
一言主神(ひとことぬしのおおかみ)、後醍醐天皇、楠木正成を祀っている。
雪の日は更に趣きがあり、幻想的な世界を体験できる。
住所:大阪府南河内郡千早赤阪村千早1009-2
電話:0721-74-0005
建水分神社は、「たけみくまりじんじゃ」となかなか難しい読み方をします。
本殿に天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、左殿に天水分神(あめのみくまりのかみ)・罔象女神(みつはのめのかみ)、右殿に国水分神(くにのみくまりのかみ)・瀬織津媛神(せおりつひめのかみ)を祀っています。
起源は古く、崇神天皇5年、諸国が飢えた時に、池や溝をつくって農業を勧めた際、金剛山麓に水の神を祀ったことにはじまると伝えられています。また、神殿・拝殿などが現在の位置に座したのは、後醍醐天皇が楠木正成に命じたからだと言われています。
なお、建築構造は水分式建築と呼ばれる精緻なもので、昭和25年に国の重要文化財に指定されています。
住所:大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分357
電話:0721-72-0534
千早神社は、千早城本丸跡にある神社。南北朝時代初期の元弘二年/正慶元年(1332年)、千早城が築城された際、その本丸に城の鎮守として八幡大菩薩を祀って創建されたとされている。
後に楠木正成 、楠木正行を合祀した。通称は『楠公さん(なんこうさん)』。
住所:大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早
元弘2年(1332)の楠木正成の挙兵時、楠木城(上赤坂城)とともに中心的山城として用いられました。
千早城は、本村の千早集落を見下ろす場所に位置する山城です。ちょうど千早地区の駐在所がある付近から山頂へ長い石段が続いていますが、その石段を登りきると平らな広場に到着します。この平らな広場は「第4郭(四の丸)」と呼ばれる、「曲輪」(くるわ)と呼ばれる人工的に平坦にした部分です。
住所:大阪府南河内郡千早赤阪村桐山
元弘元年(1331)、鎌倉幕府討幕計画が発覚し、後醍醐天皇が笠置山に逃れました。
楠木正成はこれに合わせて挙兵、この赤阪城を急いで築城しました。
しかし、にわか造りであったため、すぐに落城、正成はいったん退きます。
その後、元弘2年(1332)、正成はこの城を再び奪還、再度落城しますが、千早城での籠城戦の間に幕府は滅亡します。
住所:大阪府南河内郡千早赤阪村東阪
くすのきホールや道の駅、資料館のある楠公誕生地より南へ3分程歩くと大きな石積塔がある。「奉建塔」と呼ばれているこの塔は、徳島県の画家の方が発起人となり、昭和15年に楠公600年祭記念として建てられた。
住所:大阪府南河内郡千早赤阪村二河原邊
楠木正成生誕の地という伝承が残る場所です。
国史跡赤阪城跡(下赤坂城跡)から約500メートル、国史跡楠木城跡(上赤坂城跡)から約2キロメートルと山城とのセット関係を想定しうる場所に位置し、桐山遺跡とともに楠木氏館跡と考えられている候補地の1つです。
楠公誕生地遺跡は平成2~4年にかけて「くすのきホール」建設に伴って発掘調査がおこなわれており、2重の堀に囲まれた建物跡を確認しています。
住所:大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分266
村立郷土資料館は、楠木正成の誕生した地という伝承の残る楠公誕生地、くすのきホールの西隣にあります。昭和61年に開館したこの館は、現在まで多く方々が見学に訪れています。特にNHKの大河ドラマで『太平記』が放映された頃には、年間4万人を数える見学者が訪れました。
館1階には、古代から近世までの郷土の歴史資料を、2階には民具を常設展示しています。
近年は、年に1回程度「企画展」を行っています。
また、「企画展」などを行う際には、村広報やホームページにおいて案内をしますので、みなさん、一度身近な歴史を見学に来てください。
営業時間:9:00~17:00
定休日:月曜日(祝日の場合は営業)
住所:大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分266
電話:0721-72-1588
くすのきホールや道の駅、資料館のある楠公誕生地の北側に産湯の井戸と呼ばれる楠木正成ゆかりの井戸があります。ヒノキ製の階段を下りていくと小さな井戸があり、現在でも水が湧き出ています。正成誕生の際、この井戸から湧き出る水で湯を沸かし使用したと伝えられています。
※以前の台風の影響で、倒壊の危険があるため、立ち入り禁止です。